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2月10日「セールスマンの死」
1949年2月10日、「セールスマンの死」がニューヨークのモロスコ劇場で初演。 「セールスマンの死」(原題:Death of a Salesman)は、アーサー・ミラーによる戯曲。ピューリッツァー賞受賞作品。演出エリア・カザン。主演リー・J・コップ、M・ダンノック。日本初演は劇団民藝により、1954年一ツ橋講堂に於いて行われました。主演は滝沢修・小夜福子・宇野重吉。訳と演出は菅原卓。 年老いた63歳のセールスマン、ウィリィ・ローマンとその家族の物語です。自立出来ない2人の息子や、過去の幻影にさいなまれつつ慨嘆するローマンは、誇りを持っていた仕事まで失い、最後には自ら死を選びます。その保険金で家の月賦が完済されたことを嘆く妻の独白で幕が閉じます。  *************************** 私が「セールスマンの死」を観たのは、同じく劇団民藝による再演でした。初演と同じで、主人公のウィリィ・ローマンは滝沢修さん。1980年代ですから、随分と昔のことですが、今でも感動が昨日の様に鮮明に甦ってきます。 それにしても、「セールスマンの死は」今日の社会問題や矛盾点と重なり合います。それらを浮き彫りにしています。アーサー・ミラーの戯曲の鋭さを改めて想います。
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2月10日「セールスマンの死」
 1949年2月10日、「セールスマンの死」がニューヨークのモロスコ劇場で初演。

「セールスマンの死」(原題:Death of a Salesman)は、アーサー・ミラーによる戯曲。ピューリッツァー賞受賞作品。演出エリア・カザン。主演リー・J・コップ、M・ダンノック。日本初演は劇団民藝により、1954年一ツ橋講堂に於いて行われました。主演は滝沢修・小夜福子・宇野重吉。訳と演出は菅原卓。

年老いた63歳のセールスマン、ウィリィ・ローマンとその家族の物語です。自立出来ない2人の息子や、過去の幻影にさいなまれつつ慨嘆するローマンは、誇りを持っていた仕事まで失い、最後には自ら死を選びます。その保険金で家の月賦が完済されたことを嘆く妻の独白で幕が閉じます。

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私が「セールスマンの死」を観たのは、同じく劇団民藝による再演でした。初演と同じで、主人公のウィリィ・ローマンは滝沢修さん。1980年代ですから、随分と昔のことですが、今でも感動が昨日の様に鮮明に甦ってきます。
それにしても、「セールスマンの死は」今日の社会問題や矛盾点と重なり合います。それらを浮き彫りにしています。アーサー・ミラーの戯曲の鋭さを改めて想います。
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「おっぱっぴー」ではなく「オッペケペー」です、今日は!
 
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ミステリアスな遭難事故
 早いもので、もう1月30日。今日はミステリアスな遭難事故の話。

1979年1月30日、ヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故が発生。これはブラジル国籍のボーイング707-320F貨物機が太平洋上で行方不明になった事故です。

ヴァリグ・ブラジル航空967便は、日本とブラジルを結ぶ航空貨物路線として当時週1回運航されていました。事故当日、この貨物機は定刻よりも2時間強遅れの午後8時23分に新東京国際空港(現成田国際空港)を離陸。30分後の午後8時53分に銚子沖740キロメートルの太平洋の位置通報地点で、同機から東京航空交通管制部への「次の位置通報地点通過は午後9時23分」との通信を最後に消息を断ちました。

フライトレコーダーやボイスレコーダー、海面に漂う燃料はおろか、一切の機体残骸が発見されていません。事故後30年以上経過した現在に至るまで行方不明のままです。消息を絶ったのが「ドラゴントライアングル」と呼ばれるエリア内であったことから、「何らかの超常現象によるものではないか」、「未確認飛行物体に拉致されたのではないか」とも囁かれました。

「ドラゴントライアングル」で起きたミステリアスな遭難事故です。


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1888年1月27日、ナショナルジオグラフィック協会設立
 1888年の今日1月27日、ナショナルジオグラフィック協会(National Geographic Society)が設立された。これは、地理学の普及を目指した探検家、教師、軍人らの33人のメンバーによってに設立された団体である。月刊誌「ショナル ジオグラフィック」の発行元として有名。

初代会長にはG・ハバードが、第2代会長には、電話の発明者で、G・ハバードの義理の息子にあたるグラハム・ベルが1898年1月に就任。また、山本五十六がハーバード大学で語学研修を受けている時に協会の会員となり、ナショナルジオグラフィック誌の愛読者であったことが知られている。

地球物理学者で東大教授だった故・竹内均氏は、若い頃の米国留学中にこの雑誌に出会い、感動。そして、日本でもこの様な科学雑誌を創りたい、青少年に科学の素晴らしさを伝えたい、と長年夢を暖め、定年退官後にそれを「科学雑誌ニュートン」に結実させた。氏の著書をひも解くと、この辺りの事情が詳しく述べられている。

因みに、1981年の創刊0号より購入している「科学雑誌ミュートン」は膨大な量となり、私の書棚を占領している。古い順番に表紙が色あせて来るが、内容は色あせることなく、今もって新鮮で感動的である。20数年前より購読しているナショナルグラフィックも同様である。

余談だが、1995年9月に公開されたクリント・イーストウッド監督・主演映画「マディソン郡の橋」の主人公は、確かナショナルジオグラフィック協会のカメラマンだった、と記憶している。


科学雑誌ニュートン最新号は
http://www.newtonpress.co.jp/science/newton/index...

ナショナルグラフィック日本語版最新号は
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/
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1948年(昭和23年)の今日1月26日、帝銀事件が発生。
 1948年(昭和23年)の今日1月26日、帝銀事件が発生。

毎日、何かを日記に綴る事を日課とし、「今日は何の日」シリーズで世界と日本の出来事を綴っている私です。

今朝、この事件に関して拙文を綴ったのですが、操作ミスで消えてしまいました。詳しくは又の機会とさせて頂きますが、戦後間もない日本がGHQの占領下に置かれていた時に起きた事件であり、誰もが「冤罪」だったと捉えている筈です。では、何故この様な事件が起きたのでしょう。それは皆様の推理にお任せします。

犯人とされたのは画家の平沢貞通。彼は、長年宮城刑務所に収監されていましたが、その後高齢のため体調を崩し、1987年年5月10日に八王子医療刑務所で肺炎を患い獄中で病死。95歳でした。39年間に渡る獄中生活は1万4142日を数え、確定死刑囚としての収監期間32年は当時の世界最長記録でした。

歴代の法務大臣は、誰も平沢貞通の死刑執行に署名しませんでした。ある法務大臣は、「これは冤罪だろ」と言って死刑執行を命じませんでした。

「事実は小説より奇なり」と申しますが、この事件は戦後最大のミステリーの一つだと思います。

興味ある方は、例えば、松本清張:著「小説帝銀事件」・「日本の黒い霧」等をご参照下さい。誤解を恐れずに言えば、下手な推理小説を読むより、遙かに面白くて興味を抱かされます。それに映画「帝銀事件死刑囚」(1964年 日活 監督:熊井啓 平沢役:信欽三)。脇役で光っていた信欽三さんが平沢役の主演ですが、渾身の演技でした。

ところで、今日はNPO法人設立後の総会でした。終了後は皆さんと杯を傾け、心温まるひと時を過ごしました。酒は人と人を結びつけ、コミュ二ケーションを育みます。

機会があれば、これも「酒場の考現学」のテーマで綴ってみたいと思っています。

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1902年1月23日、八甲田雪中行軍遭難事件
 1902年(明治35年)の今日1月23日、八甲田雪中行軍遭難事件が起きた。これは、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。

冬の八甲田山は重装備が必要だったが、指導部の無謀さから兵士は軽装のまま行軍を開始。猛吹雪の中で道を失い、寒さと飢えと疲労の為に210名が遭難。199名が死亡した。

事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としていた事が挙げられる。陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そして更なる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定。その為の準備をしていた。こうした想定は、事件から2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。

この事件を題材とした小説では新田次郎が著執した「八甲田山死の彷徨」、映画作品では東宝・シナノ企画の製作で1977年に公開された「八甲田山」がある。

小説を読んだのも映画を鑑賞したのも随分と昔の事であるが、この拙文を綴りながら、今、それらを想い起こしている。
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第7回大阪モーターショー
 「第7回大阪モーターショー」を観てきました。
日曜日とあって、どのブースも朝から超満員。熱気に包まれていました。
ハブリッドカーやEV、それに第三のエコカーのe:Sテクノロジーやスカイアクティブテクノロジーに注目が集まっていました。
コンセプトカーは車社会の近未来像を描き出していて、ワクワクさせてくれました。シド・ミードの世界を観ている様でした。
懐かしく思ったのはボンネットバス。九州のあるバス会社からの出展で、昭和30年代にタイムスリップさせてくれました。
てんとう虫と呼ばれるスバル360を改造したEVも展示。これは高校生が町工場の支援と協力の基、EVに改造したそうです。
車は人間の機能、即ち移動と言う足の機能のエクステンションです。足の機能の外在化とも言えます。
プロダクトデザインの観点からも、車の進化の歴史を眺めることは楽しいです。

「第7回大阪モーターショー」
http://osaka-motorshow.com/
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1793年1月21日、フランス国王ルイ16世が・・・。
 
1793年の今日1月21日、フランス国王ルイ16世が処刑。

在位中の1789年年7月14日のバスティーユ襲撃を契機にフランス革命が起き、1792年に王権が停止された。そして、翌年、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。

ルイ16世は、ブルボン朝第5代のフランス国王。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。

さて、ルイ16世の評価は如何なるものなのか。ルイ16世は「狩猟と錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な王」、「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という二つの相反する評価を受けている。また、暗君として描いたイメージが広く知れ渡っている。

現代のフランスに於いても、例えばニコラ・サルコジ大統領は「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない...」とルイ16世を無能な政治家の譬えとして発言している。一方、サルコジの政治的ライバルであるドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン元外相はルイ16世を高く評価している。

平穏な時代であれば国王としては平凡な人生を送れたかもしれなが、革命という動乱の時代に国王となってしまったことがルイ16世の悲劇であった、とも言えるのではなかろうか。

高校で学んだ世界史では、随分とフランス革命に興味を抱かされた。私の高校生の頃は、世界史は2学年、3学年と2年間に亘る勉強であった。
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1982年1月20日、バスケットボール、初めての公式試合
バスケットボールの考案者は、米国マサチューセッツ州スプリングフィールドのYMCAの訓練校で講師を務めていたジェームズ・ネイスミス。1892年の今日1月20日、初めての公式試合がその大学で行われた。

ネイスミスの考え出したルールが現在のバスケットボールの原型になっている。

彼は、ニュー・イングランド地方の長い冬に外でアメリカンフットボールができない間、室内でそれと同じくらい激しく行えるスポーツを求めていた。そこで体育館のギャラリーに桃を入れる籠を下げて、サッカーボールを入れ合う、今のバスケットボールの原形が生まれた。

余談だが以下はラグビーの起源。

これは1823年、イングランドの有名なパブリックスクールであるラグビー校でのフットボールの試合中、生徒のウィリアム・ウェッブ・エリスが試合のルールを無視してボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した事だとされている。彼は、ラグビーの発明者として扱われている人物である。

ラグビー校は、ラグビー の町にあるイングランドで最も古いパブリックスクールの一つ。ラグビーはラグビー発祥の地としても有名。
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